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 ゴールポストが最初に作られたのは、イングランドだと言われている。

 イングランドでは、モッブゲーム(Mob Game)とかボールゲーム(Ball Game)とか呼ばれたお祭りのような行事がフットボールやラグビーの元になったと見られているが、その当時のゴールは街を取り囲むように建てられた城壁に取り付けられた大きな扉、城門である事が多かった。

 その扉をゴールとしていたのだから、そこからゴールの形が左右にポールを立てる形になったのではないか、と推測するの容易な事だ。ラグビーのゴールが今でも二本のポールであるのを見ると、さらに確信を深められる。

 史実に基づくところだと、FAは1863年にゴールポストの間隔を8ヤード(7.32メートル)と定めた。この規定は現在まで一度も変更された事がない。

 当時のゴールはゴールポストだけで、いわゆるクロスバーがなかった。棒が二本立っているだけで、短いラグビーのポールが立っている様を想像してもらうと分かりやすい。ただ、ゴールが決まるためには、ポストの間を通らねばならず、上を通っただけではゴールとされなかった。そのため、ポストの間を通ったか上を通ったかで、しばしばもめる事があった。

 それを解決すべく、やがてゴールポストの先端をテープで結ぶようになった。そのままだとテープが緩んだり取れたりした場合に問題が起こるので、1875年にはテープが木製のクロスバーに取って代わった。高さも地上から8フィート(2.44メートル)と定められた。

 これでゴールの枠はでき、もめ事も減ると思われたのだが、ボールがゴールに入ったのかどうかで、人間はまたもめるのであった。当時のゴールには、まだネットが存在しなかったのだ。

 そして1892年、リヴァプールのエンジニア、ジョン・アレキサンダー・ブロディ(John Alexander BRODIE)がゴールに取り付ける「巨大なポケット」を発明し、ゴールネットが生まれた。

 発明というと、おおげさに聞こえるかもしれない。だが、ブロディ本人も、ゴールネットは人生で最大の業績だった、と常々語っていたそうだ。そして確かに、あのネットに突き刺さるシュートなしには、ゴールのあの興奮は考えられない。それを思えばブロディの言う事も最もだ。

 素材に関しては、1980年代までは、ゴールポストの素材はほとんどが木で、米松(ベイマツ)と言う種類が好まれた。米松は針葉樹で、密度が高く、強度に優れ、歪みや狂いが出にくく、加工しやすい、という特徴を持っていたので、重宝された。しかし、近代化と共に安価で頑丈なスチールに代わり、やがて軽くて整備が楽なアルミに代わっていった。

 形に関しては、ほとんどのゴールポストが四角柱か円柱だったが、1920年にノッティンガムのスタンダード・ゴールズ社に務めていたパーキンスというエンジニアが、楕円柱のゴールポストを作った。耐久性に優れたこの楕円のゴールポストは、瞬く間に全世界に普及した。ちなみに、このゴールポストを初めて試したのは、地元のクラブのノッティンガム・フォレストだった。

 この楕円柱のポスト以降、ゴールには大きな変更は加えられていない。

 なんだかこのストーリーを追っていたら、もめ事を解決する為だけにゴールが改良されていったような気がしてならない。きっと、あながち、間違いではないような気がする。

 そして現代。ボールがゴールラインを割ったかどうかで、人間はまたしてももめている。きっとそれを解決する為に、ゴールに扉が付けられる日も、そう遠くはない(笑)

 今回は、なかなか主役になる事のないイエロー・カード、レッド・カードの歴史について少し調べてみた。ずーっと昔からあるのかと思っていたが、その歴史は以外に浅い。

 イエロー・カード、レッド・カードを考案したのは、ケン・アストン(Ken ASTON)というイングランド人審判だ。彼は、1966年のワールドカップ イングランド大会で、審判委員長を務めた優秀な審判だった。

 カードを思い付くきっかけとなったのはウェンブリーで行われた準々決勝、イングランド対アルゼンチン戦を見ていた時だった。荒れた試合だった。

 審判委員長としてその試合を見ていたアストンは、主審を務めたルドルフ・クライトライン(Rudolf KREITLEIN)がアルゼンチンのキャプテン、アントニオ・ラティン(Antonio RATTIN)に退場を宣告する場面に出くわした。しかしラティンは退場の指示を拒否し、ピッチに居座り続けた。ドイツ人だったクライトラインはラティンを説得しようと試みるが、いかんせん、言葉が通じなかった。そして、試合はそこで止まってしまった。

 アストンは事態を収拾しようとグラウンドに入り、学生時代に習った片言のスペイン語でラティンを説得した。ラティンはようやく諦めてピッチを去り、やっと試合が続行できたのだった。

 この経験で国際試合における言葉の壁を感じたアストンは「言葉が分からなくても、審判の意図が選手に明確に伝えられる方法はないか?」と、帰りの車の中でずっと考えていた。やがてアストンの車は赤信号で停車し、アストンはハンドルを握りながら信号の赤い光をじっと見つめていた。その時アストンは、思い付いたのだった。「そうだ、信号だ!」彼は信号と同じように、黄色と赤のカードを使って、審判の意図を示す事を思い付いたのだった。

 その後、アストンはこのイエロー・カード、レッド・カードのルールをFIFAに提案し、68年のメキシコ・オリンピックから導入される事になる。採用されてすぐは、出されたカードを受け取って持って行こうとする選手がいたり、カードを出す判断基準がまちまちだったりと、多少の混乱はあったが、理解が進むにつれ、すぐに普及した。

 このルールは画期的だった。それ以前にも、警告、退場のルールはあったのだが、言葉で示すだけだったため、本人以外に伝わりにくく、国際試合などでは言葉の問題もあり、選手に伝わらない事もあった。

 しかし、カードを示す事で、素早く意図を伝える事ができ、警告を受けた選手だけでなく、敵、味方、監督、観衆、記録員にまで、たちどころに意図が伝わるという優れた効果があったのだ。さらに、言葉が不要となった事で、審判が毅然とした態度を示す事ができるようになり、審判の地位や権威を向上させる事にもつながった。

 66年のワールドカップで相手チームのラフプレーにより負傷したペレは「こんな荒っぽいワールドカップには、もう出たくない」とコメントしたが、彼もこのルールに肯定的だったと言われている。実際、ペレはカードの採用された1970年のワールドカップ メキシコ大会にも出場しており、堂々優勝の栄誉を勝ち取っている。これももしかしたら、イエロー・カード、レッド・カードがもたらした効用なのかもしれない。

 その後、当時は『一時退場』だったイエロー・カードが『警告』になるなど、徐々にルールが洗練されていき、カードその物も、ボール紙で作られていた物が、プラスティックに変わり、特殊な蛍光色のインクを使うようになるなど、より視認性を高める工夫がされ、現在に至る。

 こうして見ると、物に歴史ありだな、と思う。面白い事に、カードが生まれたイングランド国内では、カードが使用されるようになったのは1976年になってからだったらしい。さらに1981年から1987年の間には選手から「審判がカードを出し過ぎる」という苦情が出て、使用が見合わされていた事もあったという。フットボールの母国は、カードの母国でもあったのに、なんとも冴えない話だ。


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